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漆器の町のよもやま話 > 第一話「漆器と兵隊と相撲」
 
 海南市の郷土史家、故雑賀紀光さんのおもしろいむかし話を随時更新していきます。

さて第三回目は、
漆器と兵隊と相撲
 漆器作りの人が歩いていると、その姿で黒江の人だとすぐわかる。たな尻といって、年中坐って仕事をしているからお尻の恰好が違う。坐業は健康的に見てもあまり良くないので、戦前徴兵検査を受けても黒江には甲種合格が少なかった。

 「これではいかぬ」というので町では体位向上のため、相撲を奨励した。荒馬、若椿など多くの有能力士が出た中で、大正八年、中言神社の秋祭の奉納相撲で東浜の山村佐太郎が優勝した。翌年一月、出羽海部屋に弟子入りをし、玉碇(たまいかり)と名乗り、前頭筆頭にまで昇進した。和歌島と共に数少ない紀州を代表する力士である。

 相撲は、何時頃からはじまったものかは定かでないが、近年和歌山県井辺八幡山古墳から出土した埴輪に、ふんどしを締め、はだしの裸形の相撲とりらしい男子像がある。

 江戸時代、元禄から正徳にかけて、日本相撲中興の祖といわれた鏡山沖之右衛門は紀州の生まれである。また布引の放駒長吉は大阪大関で、東京相撲では関脇になった。海南の玉碇佐太郎は相撲の神様といわれ、生涯、四つになったのは二番だけである。

 ついでに玉碇のことをもう少し精しくかくと、生れは明治三十四年三月二十九日、入幕は昭和三年三月、脱退は昭和七年一月。戦績は七十六勝八十八敗、一引分。身長一七○、重量一○五。特技は押し。昭和五十年十月二十五日死去、春秋園事件で協会を脱退した。

 彼は青年の頃ちょうど米騒動があり、日方の池崎にある某家の米倉から米俵二俵を両手に持って振りまわしている男があった。暗がりではっきり分らなかったが、二俵の米俵をふりまわす怪力の男といえば山村佐太郎(玉碇)より外にない筈だと後の世の語り草になっている。

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筆者紹介
雑賀紀光 日本美術家連盟会員
(元)黒江漆器意匠会々長
海南市の郷土史家 故人