きのくに散策
 
第一回 和歌の浦

若の浦に 潮満ち来れば
   潟を無み   
 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

わかのうらに しほみちくれば  
  かたをなみ  
 あしへをさして たづなきわたる
 
 訳
和歌の浦に潮が満ちて来ると 干潟が無くなって
それまでそこでえさをついばんでいた鶴たちが
葦の繁るほとりを目ざして鳴き渡って行くよ。

誰でも一度は聞いたことのある万葉集の中のこの一首は、724年聖武天皇が初めて玉津島(和歌浦)に行幸された時に随行した、山部赤人が詠んだ長歌一首、短歌二首からなる、玉津島賛歌の一首です。 
 
若の浦にの歌碑 玉津島賛歌の歌碑
 

この時代紀ノ川の河口は、大きく和歌浦湾に注いでいて、(今の和歌川河口)現在の何倍ものスケールの干潟が広がっていました。そして潮が満ちると六つの玉のような小島が連なって海に浮かぶ、それが玉津島です。今それらの島は、妹背山、奠供山、鏡山雲蓋山、妙見山、船頭山と呼ばれ、スケッチの妹背山だけを海上に残して陸地となっています。この“若の浦”は平安時代になると“和歌の浦”と呼ばれるようになり、和歌の歌枕の代表的な地として都人たちのロマンを掻き立ててきました。 スケッチの観海閣、多宝塔は、初代紀州徳川藩主頼信が建てたもので、母の霊を多宝塔に拝んだのち、観海閣から紀三井寺を遥拝したと云います。(和歌浦せんべいにもありますよね)なお、観海閣は昭和36年の台風で倒壊し、その後再建されたコンクリート製のものです悪しからず
 ご参考に 紀の国 わかやま