きのくに散策

第十一回 きのくにの生んだ巨人 南方熊楠

昭和天皇と熊楠

 上の歌 『雨にけふる神島(かしま)を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ』 は昭和37年、天皇陛下が南紀に行幸啓された時、御宿所の屋上から神島を望見され、在りし日の熊楠を偲んで詠まれた御製である。(ちなみに天皇の詠まれた歌を御製という。)天皇が一民間人の名をフルネームでお歌に詠まれるということは極めて稀なことで、それだけに陛下の熊楠への思い入れの深さがうかがわれる。
 これにさかのぼること33年前、昭和4年に南紀行幸の折、陛下は熊楠の案内で神島の林中の観察を行い、その後お召艦「長門」艦内で、粘菌や海洋生物についての御進講を受けられた。この時、熊楠が粘菌の標本をキャラメルの空き箱に入れて、陛下に献上したという逸話は有名である。この日が熊楠の生涯で最良の日であったというが、また多忙な御公務の合間を縫っては生涯、海洋生物や植物の分類研究をなされていた陛下にとっても、この時の行幸には格別の思いがあられたのであろう。そのお心が33年後のこの御製からうかがえる。
 

標本を入れたキャラメルの空き箱
幼少年期の南方熊楠

 今年日本の科学者が4人もノーベル賞を受賞するという大変嬉しいニュースがあったが、南方熊楠という人物はもしかしたら、一人で4つくらいのノーベル賞をとれるくらいの人であったかもしれない。世界18ヶ国語を操り、独特の宗教観を持ち、生物学から民俗学、大は天文学から小は細菌学まで、その見識の広さと深さは、その辺にいるような天才や秀才とはまったく格が違う。幼少時代からその片鱗をうかがわせる逸話は多く残されている。(もっともその奇行ぶり、変人ぶりを伝える逸話も多いが)

 南方熊楠は慶応3年(明治になる1年前)現在の和歌山市寄合町に生まれた。幼少期から書物に親しんだ熊楠は、毎日近所の蔵書家を訪ねては、「和漢三才図会」や「本草綱目」「大和本草」などといった、当時の大百科事典や専門学術書を読みふけり、その部分をそっくり暗記した。そして家に帰ると、一言一句、挿絵の細部にいたるまで正確に筆写したという。これが大げさな作り話でない証拠に、これらの筆写本の多くが現存している。まったくとんでもない記憶力と観察力、そして何より読解力である。どんな高性能のスキャナーやパソコンも読解力はない。読んだものを理解し、自らの血肉と出来るのは人間だけである。

自身の幼少期を語る熊楠の履歴書の照会文

 和歌山中学(現在の桐蔭高校)に進んだ彼は、生涯唯一の師と仰ぐ、当時和歌山師範学校教諭であった、鳥山啓(ひ
らく)の教えをうけ、博物学の才を伸ばした。この田辺出身の鳥山啓という人物、維新の志士であり、博物学者であり、作詞家でもあった。誰でも曲だけは知っているが、その歌詞はまず誰も知らない曲の代表格「軍艦マーチ」(歌としてのタイトルは「軍艦」)その悲運の?作詞者こそ、この鳥山啓である。

 田辺市の扇ヶ浜には、その歌詞の刻まれた顕彰碑が建っている。
熊楠と云う名

 私事で恐縮であるが、私の曽祖父は宮田熊楠という。生年は慶応元年、没年は昭和16年であるから、南方熊楠より2年早く生まれただけで、まったく同じ時代を生きたことになる。もちろん私は、家の仏壇の上の遺影でしか知らないが、子供の頃から曽祖父と同じ名前の、この郷土の偉人に特別な親しみを感じていたおぼえがある。

 和歌山の古老たちには、藤、熊、楠の字の付く名が多いが、これは熊野詣の入り口、“熊”野一の鳥居のある海南市の“藤”白神社の“楠”の大木にあやかっている。この大木には熊野神が宿っているとの信仰があり、そこから“藤、熊、楠の一字を授かって子供の名に付けると健やかに育つ”とのいわれがあるということである。なお同じく楠の一字を授かり、常楠と名づけられた南方熊楠の弟は、南方酒造、現在の(株)世界一統の創業者である。

 
海外遊学へ 

 中学生のころ、イギリスの植物学者バークレーが6千種もの菌類の標本集を刊行したという新聞記事を読み、「男と生まれたからには、バークレーたちを超える7千種の菌類を集め、日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる。」と一念発起する。明治16年東京に出た熊楠は、神田の共立学校(現在の開成高校)を経て、翌年大学予備門(旧制一校の前身)合格と、当時のエリートコースを進む。(共立学校は予備門に入るための予備校のようなもの、又当時はまだ学校制度も試行錯誤の状態で、いわゆる旧制高校や帝国大学といった制度が確立されるのはもう何年か先のことである。同年、正岡子規や秋山真之も同じコースを歩んでいる。「坂の上の雲」)

 しかしありきたりな机上の秀才教育には飽き足らず、一年で退学、明治19年渡米する。だが入学したアメリカの大学も彼の求学欲を満たすものではなく、以後学窓を捨てアメリカやキューバの各地を、隠花植物や粘菌類を求めて放浪の日々を送る。この時キューバで新種の地衣類を発見。「白人領土内で有色人によってなされた生物学上の最初の発見」として、南方熊楠の名は世界の学会で知られるようになった。
 
 1892「明治25」年、求学の疼きを胸に、アメリカ大陸での6年間の植物採集標本をひっさげて当時の世界の学術文化の中心ロンドンに乗り込む。翌年天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」が1位に入選、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載され、その後も数々の論文を発表する。

 やがて大英博物館の嘱託職員となった彼は、東洋の美術品の整理をするかたわら、主要な蔵書を読破、ここでも“歩くデジタルコピー機”の本領を発揮し、豆粒大の小さな文字でびっしりと書き写した筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』52冊1万800頁を残している。(現在も田辺市の南方熊楠顕彰館に原本が保存されている。)

 欧米での長い学究生活を通じて、東洋や日本の古い歴史や文化が、西欧に比べて決して劣るものではないことを確信した熊楠には盲目的な西洋崇拝は無縁であった。そんな熊楠が高い評価を受け、多方面の人との交友も深まるほど、妬みからか、有色人種ゆえのあからさまな蔑視を受けることも多くなる。「自分への嫌がらせはともかく、祖国の侮辱は許さん!」と反発した熊楠は、トラブルを起こすこともあり、やがて大英博物館を追われることとなる。

 熊楠の学才を惜しむ人たちが博物館の評議員である皇太子(のちのエドワード7世)などに嘆願し、条件付きで復館を認められたが、それを聞いた熊楠は彼らの厚意に感謝したあと「私にも日本人としての、学者としての誇りがある。それを捨て、膝まで屈してまでここに留まることはできない。」と大英博物館を去った。やがて1900年帰国を決意。ロンドン滞在足掛け8年、20歳で日本を離れた熊楠もすでに34歳となっていた。





南方熊楠顕彰館のロンドン抜書
(展示物はレプリカ)

帰国後の活躍

 学位のひとつも取らず、「蚊帳のごときぼろ服」を着て、両手に破れトランク背中に粘菌標本を詰め込んだ大風呂敷を背負い、突然帰ってきた彼の姿は周囲の者を唖然とさせた。帰国後約一年は和歌山市内で過ごし、隠花植物の採集、標本化活動を再開する。この時、ロンドンでともに過ごした中国革命指導者の孫文が来訪、旧交を温めあっている。その後足掛け3年、那智に滞在し、計2533に及ぶ菌類、852の藻類を採集、熊野植物調査を完了した。又在英時代親交を深めたロンドン大学事務総長ディキンズとの共書「方丈記」や「日本古文篇」の校正を手がけ、国内外の様々な分野の学術雑誌への論文を発表するなど、その活動は本格化を始めた。
 明治37(1904)年、和歌山中学時代の友人であった医師の喜多幅武三郎の世話で、彼の住む田辺の町での暮らしを始める。39年には40歳にして結婚、定住の地を得た熊楠はこの地を拠点に、大自然の宝庫、熊野三千六百峰をくまなく踏査し、過去のものと併せて約4500種六千点にのぼる世界一の菌種標本を整理して「日本菌譜」(未刊)の草稿を作り上げている。

田辺市観光案内板の一部分
  このころ政府は「神社合祀」の推進を始める。各地の集落ごとに多く点在している小さな神社を合祀して、一町村一神社に統合するというものである。神社にお参りすると本殿の手前に、「摂社や末社」といわれる小さな祠がいくつかあるのに気付かれると思うが、これらの多くはこの時の神社合祀により移されたものである。

 それぞれの土地の鎮守の神様は、その地域特有の伝統文化そのものであり、神域の森はやはりそこ特有の動植物の生息する、生命の森である。神社合祀はそういった文化と生命を奪うものであるとして、熊楠は民俗学、博物学、宗教学的見地から合祀反対を表明し、運動を展開する。こうした運動は次第に議会をも動かし、約10年後の大正9年には貴族院で、「神社合祀無益」との決議がなされた。

南方熊楠顕彰館
&旧邸地図
南方熊楠旧邸 (田辺市中屋敷町)

見取り図

道から見た土塀

母屋1

母屋2

玄関
土蔵とその内部 各地で採取した標本や書物が収められていた
 熊楠の名声が高まるとともに、国内外の著名人や学者の来訪も多くなり、又執筆活動も多忙を極めたため、山深く分け入っての採集は少なくなり、今までに集めた標本の整理や、自宅の庭での観察が多くなる。

 そんな中の大正6年、なんと自宅の庭の柿の木から新種の粘菌を発見した。それまで粘菌は腐朽した木に付いて育つと定義されていたが、この粘菌は生きた木に付いて繁殖していたのである。この粘菌は、大英菌学会会長グリエルマ・リスタ−女史によって「ミナカテルラ・ロンギフィラ」と命名された。やはりこの男の観察力は半端ではない!この柿の木は今も旧邸の庭に遺されている。(右の写真→)

柿の木
観察、研究を行っていた書斎 その机は顕微鏡を使いやすいように前足を切って傾けている
熊楠交遊録

1)孫文  熊楠は大英博物館の東洋部図書部に在籍中、清王朝打倒に失敗し、日本、アメリカを経由してイギリスに亡命してきた孫文を、部長のロバート・ダグラス卿から紹介され意気投合する。満洲族(女真族)支配の清王朝下で、さらに西洋諸国に半植民地化された漢民族の独立国家建設が孫文の志であった。学問と政治と、道は違えど、それぞれの祖国を思う気持ちには通じるものがあったであろう。その後も書簡の往復や、先にも触れたが、熊楠帰国後も孫文の来訪を受けたりしている。

孫文

2)フレデリック・ディキンズ  同じく熊楠が英国滞在中のロンドン大学事務総長。若いころ英国軍医将校として幕末の日本に滞在し、英国一の日本通を自認していた彼は、書き上げたばかりの「英訳竹取物語」を若い熊楠に見せたが、手厳しい批評を受け激怒、しかし後になって冷静に考えると、確かに熊楠の指摘は正しいと気付き深い感銘を受ける。「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の人。」 ディキンズは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、   終生変わることのない親交を結んだ。「方丈記」などの共著も先に触れた


F・ディキンズ
3)土宜法竜(ときほうりゅう)  のちの高野山管長。明治26年、土宜はシカゴで開かれた万国宗教大会に日本代表団の一員として出席した。帰路パリのギメー博物館の要請で、五ヶ月間そこに滞在していた時、ロンドンの熊楠と出会い、以後30年に渡り往復書簡が交わされる。

熊楠の世界観、宗教観に大きな影響を与えた人物。土宜法竜と熊楠の間で交わされた書簡はきわめて思想性が高く難解。「南方曼陀羅」とも呼ばれる熊楠の思想の全容に分け入ろうとする時、最も重要な資料のひとつとなっている。熊楠は土宜の高野山管長就任後の大正9年と10年の二度、高野山に滞在している。

土宜法竜
4)柳田 國男  日本の民俗学の父と称される人。熊楠の発表した論文がきっかけで交流が始まり、これが我国の民俗学草創期の礎となる。熊楠の神社合祀反対運動に際し、当時内閣法制局参事官であった彼は、行政への働きかけに尽力した。熊楠のことを「日本人の可能性の極限」と称賛し、敬愛していたという。



熊楠没後

 昭和16年12月、南方熊楠は波乱の74年の生涯を静かに閉じる。
冒頭に紹介した陛下の御製は、熊楠顕彰に大きなはずみとなり、昭和40年には白浜町に南方熊楠記念館が開館。熊楠の超人的な足どりが人びとの前にようやく明らかになった。

一方自宅に残された未発表の膨大な資料や蔵書は遺族の手で大切に保存されていたが、平成の世になって、保存顕彰会が組織されてその研究が始められた。平成12年に長女文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に寄贈され、平成18年には旧邸隣地に南方熊楠顕彰館がオープン。資料のデジタル化・データベース化が進められてきた。今後は未刊行の部分の多い日記や書簡など重要資料の翻刻が、顕彰館を中心におこなわれようとしている


柳田 國男




リンク
南方熊楠顕彰館

南方熊楠記念館