きのくに散策

第十二回 古代きのくにの大王族“紀氏”

 
紀氏と紀伊風土記の丘

 “男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり” で始まる“土佐日記”の作者として、また最初の勅撰和歌集“古今和歌集”の撰者の一人として名を残す紀貫之という人。中学校や高校の古典や日本史の教科書で、皆さんも一度は聞いたことがありますよね。

 歌人、文化人としての名を残す彼ですが、本業は今で言う官僚、政治家といった職業の人物でした。もっともこの時代、平安初期のころ貫之ら“紀氏一族”の朝廷内での官僚としての位は中級程度のものであったわけですが。

紀貫之
 ところが紀氏一族のルーツは大和時代、物部氏や曽我氏等と共に、統一国家建設に大きな働きをした一族でした。そして曽我、物部氏が歴史の表舞台から消え去った後も、朝廷内でそれなりの地位を保っていた一族であった訳ですね。
そしてさらにそのルーツを遡ってゆくと、弥生時代から古墳時代にかけて、現在の和歌山市の東部地方を中心に大きな勢力を持っていた豪族集団“紀氏”一族に至ります。

 紀氏の支配する国だから紀ノ国なのか、紀ノ国の豪族だから紀氏と呼ばれていたのか、どちらが先かは判りませんけどね。
 
和歌山市東部地域 豊かな穀倉地帯だった昔日が偲ばれる
 
 和歌山市の東部、紀ノ川を見下ろす小高い丘に、「紀伊風土記の丘」という公園があります。春には山一面桜が咲き乱れ、和歌山市や近隣の市町の人にはなじみの公園ですが、ここは元々“岩橋千塚古墳群”(いわせせんづかこふんぐん)といわれ、園内だけでも大小合わせて400あまり、周辺地域も含めると700あまりという、全国でも最大規模の大古墳群が築かれていた所です。

 これらの古墳群は5〜7世紀ころ、この地域に大きな勢力を持っていた紀氏一族のものといわれ、現在も調査、発掘が進められていますが、数多くの民俗遺産や、大陸とのつながりを示す遺産などが出土されています。そしてこれらの古墳群や出土品の保存と公開を目的として、昭和46年に設立されたのが、県立博物館施設「紀伊風土記の丘」公園です。

紀伊風土記の丘公園
 

鉄製馬冑
(和歌山市大谷古墳より出土)

犬形埴輪

猪形埴輪
  先日、奈良県桜井市の箸墓古墳が、やはり卑弥呼の墓ではということで、邪馬台国畿内説が一段と有力になったような話題がありましたが、 古代の日本には卑弥呼のような祭祀を執り行なう女王(巫女)を中心にした豪族国家が、全国あちこちに存在し、 たまたまその中で、中国の魏志倭人伝という書物に紹介されたから、その名が残ったのが“邪馬台国”“卑弥呼”という存在ではないかと私は個人的に思っています。

 以前、きのくに散策の「神武東征記きのくに編」で紹介しました “名草戸畔(とべ)”というのもこうした紀氏の支配していた国の女王だったのかもしれませんね。
 大日山35号墳








大日山32号墳より
紀ノ川方面

大日山32号墳より南方面
 前山B53号墳(将軍塚)
 
   
 
紀氏と日前宮


 紀伊風土記の丘から2キロほど西(和歌山市中心部寄り)に、日前宮(にちぜんぐう)と言う神社があります。

毎年初詣には30万人位が訪れる市内では有名な神社ですが、ここの宮司さん、なんと古代より紀さんと言う方が代々引き継いで勤めておられるそうです。

そう、紀伊風土記の丘に眠る紀氏の末裔がここに居られるわけですね。

その歴史は古く、神話の世界にまで遡ります。このような古い家系は皇室以外には全国にも数家程度しかありません。
日前宮
 この神社、宮司さんの家系もさることながら、その社格も、 紀伊の国一之宮(県内3社)、 明神大社(県内11社)、 旧官幣大社(県内5社)と超一級のものです。

 さらにここの祭神には神階がありません。
公家貴族の位に、従二位や、正三位と言った位置付けがありますが、神様にも同じ位づけがありこれを神階と言います。最高位は正一位で全国に九社ありますが、神階が無いのは伊勢神宮と日前宮だけのようです。
つまり神道の世界では別格の存在ということですね。


日前神宮
 一般には日前宮と呼ばれているこの神社、ひとつの境内に二つの神社があります。

片方を日前(ひのくま)神宮、もう片方を國懸(くにかかす)神宮といい、それぞれ日像鏡(ひがたのかがみ)、日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体とする“日前大神(ひのくまのおおかみ)”、“國懸大神(くにかかすのおおかみ)”をお祭りしています。


國懸神宮
 天の岩窟(あまのいわや)の神話は聞かれたことがありますか?

天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩窟に閉じこもり世界が闇になった時、神々は相談して、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の姿を映す御鏡(みかがみ)を鋳造し、岩窟の前でかがり火をたいて、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がセクシーな姿で舞い踊り、新しい大女神様が来られたと言って大宴会を催しました。

気になった大御神が隙間からのぞくと、そこには鏡に映った自身の姿が。
これが新しい女神かと思った瞬間、手力雄神(たぢからおのかみ)が天照大御神の手を取り外へ引き出して、再び世界に光が戻ったと言う神話ですが、このとき鏡は三体造られ、本番に用いられたのが最後に造られた伊勢神宮にある八咫鏡、初めに造られた二つが日前宮の日像鏡、日矛鏡と言われています。(つまり試作品か?)

確かにうがった見方をすれば、あまり出来の良くなかった試作品とも取れますが、古来より三つの鏡は同体、同等のものとされ、むしろ先の二つは日の神(アマテラス)の前霊(さきみたま)として古来より崇敬を受け、日前という名はここから来ているとも言われています。


舞い踊る天鈿女命
紀伊国造(きのくにのみやつこ)

 記紀神話ではその後、紀氏の祖神とされる天道根命(あめのみちねのみこと)が、天孫降臨に先立ち、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に従って、この二種の神鏡とともに地上に降り立ち、やがて神武天皇即位の後、紀伊國を賜り初代の国造(くにのみやつこ)に任命されたと言います。
国造とは古代の行政制度で、形式的には朝廷が任命する形ですが、地方の有力豪族が、半独立国としてその地方を支配していたのが実態でした。

やがて大化の改新の後、律令制度の導入に伴って國造制は廃止され、代わって国司、郡司と言う中央から派遣された役人、官僚が統治する、いわゆる中央集権国家体制が成立します。
ところがここでも不思議なことに紀伊と出雲の二国だけは国造制度が残されました。もっともこれには政治的な権力は無く、日前宮、出雲大社の祭祀をつかさどる者の名誉職的なものであったわけですが。

こうして紀氏の紀伊国造職は、明治になって正式に国造制が廃止されるまで代々引き継がれてきました。

伝説のスーパー宰相 武内宿禰(たけのうちのすくね)


 「ウン? たけうちしゅく?・・・? 誰それ??知らんなあ?」
はじめて武内宿禰(たけのうちのすくね)という名を目にした時の印象です。もう十数年も前になりますが、愛車に初めてカーナビを付けて間もないころのある日、阪和道を南向けに走っていた時、海南市の手前で、高速道のすぐ脇に“武内宿禰生誕井”というものがあるのをナビの画面で見つけました。
その後なんとなく頭の片隅に残っていましたが、何年か後のある日、和歌山市役所のホームページの中で、偶然この名前を再び目にしました。

 皆さんは、武内宿禰という人物を御存知でしょうか?
戦後生まれの我々にはほとんどなじみがありませんが、戦前は教科書にも載せられ、また何度もお札の図柄にも採用されたこともある、歴史上の有名人物でした。

 武内宿禰について、まずは和歌山市のホームページから紹介します。


 日前宮を祀る紀伊国造(きのくにのみやつこ)宇治彦(うじひこ)の娘と天皇家の皇子との間に生まれたのが、伝説の大臣・武内宿禰です。 
彼は景行天皇(けいこうてんのう、神話に有名なヤマトタケルノミコトの父)の時代に紀伊国名草郡で誕生し、成務(せいむ、第十三代天皇、ヤマトタケルの異母兄弟)・仲哀(ちゅうあい、第十四代天皇、ヤマトタケルの子)・応神(おうじん、第十五代)・仁徳(にんとく、第十六代)の各天皇に仕えたと伝えられています。
  特に神功皇后(じんぐうこうごう、仲哀天皇の后、応神天皇の母、ちなみに全国津々浦々にある、八幡神社というのはこの神功皇后と応神天皇を祀っています。)が朝鮮半島へ遠征する時には、軍事を補佐して功労があったといわれています。
戦前では、天皇家に忠節を尽くし、4代の天皇に仕えた長命の人として、多くの人々からあがめられました。

享保16年(1731)に彼の誕生地を捜し求めて、現在の和歌山市松原にある井戸を、彼が誕生の際に産湯を使った井戸であると考えられるようになりました。
このため、紀州のお殿様に子どもができると、彼にあやかってその子が長命であるようにと、その井戸の水を産湯として使うことになっていました。
(和歌山市ホームページ> 観光案内>歴史探索>和歌山紳士録>武内宿禰  より転載、かっこ内赤字注釈は筆者)
 
 この度、実際にその場所を訪ねてみました。

安原小学校の前の道を東に向かい、阪和道のガードをくぐる手前で、南にそれる細い道に入ると、武内神社と書かれた小さな社があります。
その中の“長寿殿”と書かれた小屋?の中にその産湯の井戸はありました。
正直なところ、いくら二千年近くも昔のことといえ、時の皇子とこの地方の大豪族の娘の間の子供が生まれた場所とは思い難いです。

武内神社

鳥居をくぐると

右手に小屋?

中をのぞくと

たけうちたんじやうの井と読める
 ここにたっている案内板を転載します。

武内宿禰産湯の井戸

武内宿禰は、『古事記』によると、第八代孝元天皇と紀伊国の日前宮を祀る紀伊国造第六代宇治彦の娘・山下影姫(やましたかげひめ)との間に生まれたという。
なお、『日本書紀』では、第十二代景行天皇が皇族の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を紀伊国に派遣した際、命と宇治彦の娘・影姫との間に生まれたともいう。
 

案内板
 
その後、武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の各天皇に仕え、特に神功皇后の朝鮮半島遠征を補佐したと伝えられる。
また、彼は蘇我(そが)・葛城(かつらぎ)・巨勢(こせ)などの古代の大豪族の祖先として祀られている。
歴代の天皇に仕えるほどの長命を保ち、国家に忠誠を尽くし、子孫が繁栄したという点で、古くから理想的な人物としてたたえられてきた。
そのため、戦前発行の紙幣には武内宿禰がしばしば図案として用いられた。

その母は紀伊国の名族紀氏一族の娘で、彼は紀伊国で誕生したと言われている。
このため、江戸時代に彼の誕生した故地が求められ、享保十六年(1731)にこの井戸が、第七十一代紀伊国造紀俊範によって、彼の産湯を用いた井戸であると考証された。
その後、武内宿禰の事跡にあやかろうとするため、紀州徳川家に子女が生まれた時は、この井戸の水が産湯として用いられた。
平成九年 四月 建立  和歌山市
 以上武内宿禰の大まかな紹介です。
やはり江戸時代になってから、ここが武内宿禰の生まれた所でしたと考えられるようになったというのはチョット・・・?
紀州徳川家と紀伊国造家の御都合で、ここらを武内宿禰誕生の地という事にしておきましょうと決めてしまったような気がしないでも・・・・
まあいいか、和歌山人は信じましょう、きっとここが武内宿禰の生まれた場所です!・・・? 
 前回、紀貫之らのルーツが、今の和歌山市にあった豪族集団“紀氏”と紹介しましたが、正確には紀氏の娘とヤマト王朝の皇子の間の子=武内宿禰 の子孫ということになります。
武内宿禰には7男2女がいましたが、その5男が彼の祖母方の紀性を受け、紀角宿禰(きのつねのすくね)と名乗り、その子孫は代々大和朝廷の政治面、軍事面で重要な働きをしました。
また他の兄弟もそれぞれ、大和王朝を支えた蘇我・葛城・巨勢・平群(へぐり)氏など、27豪族の始祖と言われています。

 実際は朝廷の有力豪族が、武内宿禰にあやかって、彼を自分たちの始祖に祀り上げたということでしょうか。
逆にそれだけ、古代国家における彼の存在がいかに大きかったかということがうかがえるとも言えます。

 しかしこれらの豪族たちも、大化の改新から律令制度を経て、藤原氏の勢力が強まるに連れて、次第に政権中枢から遠ざかり、やがて滅亡への道や、また紀貫之のように宮廷文化人としてのみに生きる道を行くようになります。 

 古代人!やたら長寿の謎?


  ところで、日本書紀で武内宿禰がはじめて大臣(おおおみ)を務めた成務天皇が即位したとされる年を、西暦で見るとAD131年、神功皇后の朝鮮征討がAD200年、その年に生まれた応神天皇の即位がAD270年、さらに次の仁徳天皇の即位はAD313年になります。
つまり少なくとも180年以上にわたって大臣を務めたことになります。ウーン・・・残念ながら絶対にありえませんね。
 武内宿禰に限らず、初代天皇とされる神武天皇は127歳、第九代開化天皇は115歳、第十代崇神天皇が168歳など、記紀の古代の記述には時々、やたら長寿の人物が登場します。
このことについて、“後世の人がでっち上げた作り話”と片付ければそれまでですが、古代中国の「魏略」という、有名な「魏志倭人伝」の原典となった書物の中に、「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」といった内容の記述があるそうです。
古代の日本人は、春の耕作期から秋の収穫期までを一年、収穫期から翌年の耕作期までを次の一年と数えていたというのです。
つまり実際の一年を二年と数えることになり、これなら長寿の人も、実際の年齢はその半分となり、あり得ない話ではなくなってきます。

 しかし武内宿禰の、三百歳前後という別格の長寿は、一年を二年と数えてもまだまだ無理があります。やはり複数の人物の事績が一人のものとして伝えられたと見るのが自然かもしれません。

 また、この方式で古代王朝の年代を逆算すると、神武東征が2世紀後期、今回の主人公武内宿禰の活躍したのが3〜4世紀ということになり、「魏志倭人伝」の記述や、いま話題の纒向(まきむく)遺跡の、2世紀後期から3世紀という年代とも符合されてきます。

 それでは魏志倭人伝のいう邪馬台国というのはやはり記紀の言う大和王朝なのか、あるいは邪馬台国と対立していたという狗奴(くな)国こそ大和王朝なのか、また、卑弥呼というのは誰なのか、今後の調査研究が待たれます。
 おそらく記紀が編纂された7世紀末から8世紀には、半年を一年とするような古代の暦法はすっかり忘れられていたので、時々とんでもない長寿の人物が登場することになったのでしょう。

平安初期の歌人、在原業平(ありわらのなりひら。825〜880)が、“千早(ちはや)ぶる(信じられないような不思議なことがいろいろある)神代(かみよ)”と言っているように、記紀の、年代などの記述の非現実性は古くから知られていました。

 記紀の編者たちも、当然そのことは認識していたはずで、もし単に自分たちに都合の良い歴史をでっち上げることだけが目的なら、もう少し真実味のある話をつくることはいくらでも出来たでしょう。
しかし彼等は、自分たちの思いを入れることなく、先人たちから語り伝えられてきたものを、矛盾点や非現実性もそのままに、淡々と記述することに勤め、その判断については後世の人たちに託した。
記紀とはそういうものであったのだと私は思います。


 今回は紹介出来ませんでしたが、和歌山には加太の淡嶋神社や木本の八幡宮など武内宿禰や神功皇后にまつわる伝承の地が多くあります。またいずれかの機会に紹介させていただきたいと思います。