天下人に咬みついたきのくにの猛者達 Pert2

石山合戦と雑賀攻め

 この辺りからいよいよ伝説の人「雑賀孫市」が歴史の表舞台に登場します。当時の資料ではその名は、「鈴木孫一」として残されています。そして本名は、諸説ありますが、「重秀」というのが有力なようです。当時一般に、“雑賀の(頭領の)孫一”的な呼び方をされていたものが、江戸時代以降の、種々の“おはなし”のなかで、いつか雑賀孫一、あるいは孫市となったようです。

 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした時、畿内に勢力を持っていた阿波の三好氏は、いったん本国に引き上げましたが、二年後の元亀元年(1570) 7月巻き返しを図って摂津に上陸、野田・福島に砦を築き、再び信長に対峙します。

 このとき鈴木孫一ら雑賀衆の一部有志が、三好の傭兵としてこの砦に入りました。一方信長からは、8月に将軍義昭、守護畠山氏を通して雑賀・根来衆に対して参戦が要請され、雑賀・根来はこれに応じる形で、信長側で攻城戦に加わりました。


鈴木孫一の菩提を弔う、和歌山市平井
の蓮乗寺 右はその墓と言われている
孫一はこの地の人と言われ、地区のあ
 ちこちに、孫一にまつわる案内板がある
 つまり雑賀勢同士が戦ったわけですが、この戦いでは三千丁の鉄砲の激しい銃撃戦が行われたといいます。しかも彼らは火縄銃の短所、連射性の無さを補うため、四人一組で、一人が数丁の鉄砲を順番に、間断なく撃ち、後の三人がひたすら弾を込めるという戦術も編み出していたようです。

 信長が三千丁の鉄砲を三弾構えに配置して、武田騎馬軍団を壊滅させた、有名な長篠の合戦が天正3年(1575)のことですから、雑賀・根来衆はその5年も前に大量の鉄砲を使いこなす術を身に付けていたと言う事になります。

 一方、三好が討たれたら次の矛先は自分たちに向けられると読んだ本願寺の法主顕如は、各地の門徒衆に蜂起を要請、9月12日先手を打って挙兵し信長方の陣地を攻撃、ここに十年間にわたる石山合戦の火ぶたが切って落とされました。本願寺の蜂起に伴い、初め信長方で参戦していた雑賀衆も次第に本願寺方に加わるようになり、鈴木孫一ら十ヶ郷・雑賀荘の門徒衆を中心とした雑賀衆は本願寺軍の主力として、信長軍に“土塀ひとつ破らせない”という働きをしました。

 さらに天正4年(1576)、戦いが籠城戦を迎えると、雑賀衆は鉄砲隊を中心とした前線の働きだけでなく、水軍を用いての石山補給部隊の中心も担うようになりました。こうして戦いが膠着状態に陥ると信長は、本願寺軍の主力であり、かつ補給の本拠である雑賀討伐を計画し、まず雑賀の三組(宮郷・中郷・南郷)と根来衆を取り込んでおく工作をした上で、翌天正5年、満を持して紀州に攻め入りました。


顕如上人
 2月13日信長は、滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉・荒木村重・細川藤孝・堀秀政他そうそうたる武将を従え、10万の大軍を率いて出陣しました。一土豪集団に過ぎない雑賀衆相手にこれだけの大軍を動員したことを見ても、いかに信長が石山攻めで雑賀衆に手を焼いていたかがうかがえましょう。

 和歌浦妙見山 山上右端の灯台様の物は、消防署の火の見やぐら(現在は廃墟)です。(今までずっとなぜあんな所に灯台があるんやろうと思っていた。)

妙見山上の石垣の跡?
 対する孫一ら雑賀衆は和歌浦の妙見山城(南消防署の裏の小高い丘)を拠点に、弥勒寺山城(秋葉山)に部隊の主力を結集して、雑賀川(和歌川)を挟んで対峙しました。

 このとき孫一らは潮の干満を利用して川の水をいったん干上げ、川底に無数の瓶や桶を埋めた後、再び水を流しておいたので、先を競って渡河して来た織田軍の兵馬はたちまち川底に足を取られ、そこへ雑賀自慢の鉄砲衆からの一斉射撃を受けて大打撃をこうむったと言います。

    以下神坂次郎氏、「熊野まんだら街道」雑賀孫市の城より抜粋
 こうして三月三日、織田信忠、羽柴秀吉らの天下に名のひびいた歴戦の勇将たちが、地をおおうばかりの勢いで南下し、弥勒寺山城の裾を流れる雑賀川の対岸に布陣する。信長軍の大寄せに、雑賀郷は沸騰した。
「信長め、来たか!」
 異形の雑賀鉢兜、黒具足に身をかためた孫市は、目をかがやかせた。風にのって、織田の陣から軍貝や陣鉦の音が、いっせいに立ち上がるようにびょうびょうと鳴りわたり、騎馬隊のひづめのとどろきと武者声が湧きあがった。織田の先陣五千の騎馬隊は喚声をまきあげて草を蹴り、まっしぐらに雑賀川に突入した。
「雑賀の者ども、いまぞ、撃ちやれ!」
 孫市は声をあげた。その声に、川べりにひそんでいた雑賀者たちの銃声がこたえかえし、天地が裂けるほどの炸裂音をたてた。  以上抜粋

上空より見た和歌川河口付近
この辺りで対峙した
(写真をクリックすると大きな画像)
写真提供 Goole Earth

秋葉山
右手は県営プール

登山口

山上広場 市民の丘

山上の案内板

山上より和歌川方面
信長め、来たか!

和歌川東岸より見た秋葉山 孫一め、どうひねりつぶしてやろう
 こうして戦いは膠着状態となったが、いかんせん多勢に無勢、十万の大軍に二千や三千の兵力ではいつまでも持ち応えられるはずはありません。

 ところが毛利輝元が雑賀への援軍の動きを見せ始めたため、背後を衝かれる恐れを感じた信長は和議を持ちかけ、名目上雑賀衆は降伏し、信長はこれを全て赦免するという形で3月15日にいったん決着を見ました。
 
その後、信長方に加担した南郷や宮郷の土豪衆との対立が表面化し、井の松原(海南市)で合戦が行われました。

 信長も再び軍をさし向けましたが、この時も孫一らが勝利したようです。この合戦の詳しい資料はあまり残されていないようですが、ともかく信長は二度紀州を攻めて、ついに屈服させられなかったことになります。


 右の2枚の写真は、雑賀荘の鎮守神 "矢ノ宮神社” です。御祭神は、前回神武東征でもご紹介した"ヤタガラスノミコト”。当時の雑賀荘の人が、信長軍に屈したとは思っていなかったことが、ここの案内板にも伺えます。

 さて、籠城戦が膠着していた石山本願寺の方も、天正7年(1579)には朝廷が講和の仲介に動き出し、これを受けて、翌8年4月には法主顕如上人は石山を退去、本山を紀州雑賀御坊(現在の鷺ノ森別院)に移しました。

 これより3年間、鷺ノ森が浄土真宗本願寺派の総本山になります。 
(右は現在の鷺ノ森別院)
 徹底抗戦を主張して石山に留まった、息子の教如上人も8月には石山を離れ、10年にも及んだ石山合戦もようやく終結を迎えました。
 
このとき紀州に逃れた教如上人を、雑賀の門徒たちが信長の追っ手から匿ったのが、雑賀崎の鷹ノ巣洞窟(上人の洞窟)と言われています。

 秀吉の紀州攻め

 信長の死後、大阪を本拠に天下を目指す秀吉にとって、自らの膝元である泉州に勢力を張る、根来寺や雑賀衆は見過ごせぬ存在であり、天正11年(1583)頃から度々、貝塚・岸和田辺りで小競り合いを繰り返していました。

 さらに翌12年に、家康が信長の次男信雄を奉じて秀吉と戦った、小牧・長久手の役が起こると、雑賀・根来他の紀州勢は、信雄(家康)に加担して岸和田城を攻撃、堺から大阪近郊まで攻め上り、秀吉の尾張出兵の出先をくじく形となりました。

 彼らは四国の長宗我部勢と共闘して、築城中であった大阪城を焼き払い、あわよくば京の都まで攻め込むつもりであったと言います、なんとも痛快な話ですが、結果的にこのことが秀吉に紀州攻めを決意させることとなりました。

 天承13年3月、秀吉は十万余の大軍をもって紀州攻めを開始、21日、泉州にあった8ヶ所の出城に対し、一斉に攻撃をかけてきました。

 激しい交戦の末、23日にはこれらの出城はすべて陥落、秀吉軍は風吹峠を越えて一気に根来になだれ込みました。

 すでに大半の将兵を出城の戦闘で失っていた根来衆に、もはや余力は少なく、雑賀衆の太田左近は自城に退却、杉之坊院主、津田自由斎照算(根来に鉄砲をもたらした津田算長の息子)も五百の鉄砲で激闘を繰り広げながら、ついに討死。紅蓮の炎の中、二千七百余の堂塔の大半と共に、根来衆はその終焉を迎えました。

 このときかろうじて焼け残った多宝塔(右 国宝)の白壁には、今もこの時の銃撃戦の弾痕が生々しく残っています。

 根来を壊滅させた秀吉軍は余勢を駆って、翌25日には太田城を取り囲みます。

 この時本願寺の顕如は、仲介に動き、孫一を勧降の使者として遣わしますが、(秀吉と本願寺は比較的良好な関係にあり、したがって雑賀の門徒衆が秀吉と対立することを、顕如は望まなかった。)城主太田左近はこれを拒否し、秀吉は総攻撃を開始しました。

 ところが太田左近は、近隣の森などに鉄砲衆を伏せ、ゲリラ戦を展開したため、秀吉側の損害も大きく、多くの兵と共に、五十一人の武将も失いました。

 そこで秀吉側は強行作戦を中断し、水攻めを行うべく、翌26日夜から五日間かけて築堤工事を行い、宮井川の水を注ぎ込んで、大田城を孤立させました。

 これは、天正10年の備中高松城、天正18年の武蔵忍城と共に、三大水攻めと言われています。

太田城はこの辺り?
提供 いつもガイド

 籠城約一ヶ月、兵糧も尽き、城内の井戸に泥水が流れ込むに至り、太田左近は降伏を決意、自らの命と引き換えに、城兵の助命を求めましたが、秀吉は、太田左近を含めた主な武将五十一人の首を要求しました。つまり、緒戦で失った秀吉方の武将と同数の首を求めたわけです。

 そして24日、太田左近ら51名の武将は切腹して、太田城は開城されました。 

 こうして、戦国乱世を駆け抜けた雑賀・根来の鉄砲集団の組織的な活動はここに終焉を向かえ、天下人を相手に、華々しい活躍を見せた、その歴史に幕を引くこととなりました。


太田城水責図
 やがて世は秀吉から家康による、中央集権の統一国家へと移って行き、和歌山も、関ケ原の合戦後の浅野幸長の統治を経て、徳川親藩五十五万石の城下町としての、新たな発展の時代を迎えてゆきます。

 それにしても、・・・全国規模で大型店同士が熾烈なシェア争いをしている中にあって、必死で自分たちの領地を守っている、我々零細業者の姿に重なりませんか?


太田城跡地
頑張れ雑賀の末裔たち!