紀州桐箪笥協同組合
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紀州箪笥の歴史
  紀州における箪笥造りの起源は定かではないが、紀州徳川家の歴史をつづった「南紀徳川史」によると、弘化3年(1846)和歌山城は落雷のため、天守閣その他が炎上し、多くの道具類と共に灰と化した。
 嘉年3年(1850)に天守閣が再建され、また、同時に長持等の道具類も製作されなおしたという記述がある。このことから、当時和歌山城下には長持等の箱物を製作する技術があったことがうかがえる。
 一方、紀州における箪笥造りに関する記録としては和歌山県粉河町・曽和家から発見された、天保15年(1844)、嘉年6年(1853)、安年3年(1856)の婚礼仕度にかかる古文書の中に「四月末、手たんす壱本若山にて買、代捨5匁5分」(若山は、現在の和歌山市)とあり、当時すでに箪笥は武家以外の階級社会でも婚礼調度品であったことがわかる。明示、大正時代から昭和にかけて新通りが家具屋街であったことと符号する。

 また、万延2年(1862)川合小梅が「小梅日記」の中で「三丁目へたんす見に行く」の旨の記述をしている。
 違例としては、金具等の仕様からみて江戸時代に製造されたと推定される箪笥は、重要文化財に指定されている和歌山県岩出町・増田家、または、紀州藩菩提寺長保寺、和歌山県湯浅町の商家等から発見されている。また、19世紀初頭から造られていたと推定される他産地に見られない特有の型の箪笥(仮称:和歌山県型)も数点発見されている。

 以上のことから、すでに江戸時代末期には現在の和歌山市において箪笥の製造技術が確立し、生産が行われていたと考えられる。
 明治時代には、大阪圏の需要を満たす地廻り産地として発展を続けると同時に、地元需要も増加した。特に、明治34年に南海鉄道が開通し、大阪への貨物輸送が可能となったこともあり急に発展していった。
 その後、第2次大戦後の混乱期を脱した、昭和28年頃から5〜6年間は、ほとんどの工場が桐箪笥の製造に移行した。

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